恐(かしこ)の坂の万葉歌碑
父君に 我は愛子(まなご)ぞ
母刀自(とじ)に 我は愛子ぞ
参(ま)ゐ上(のぼ)る
八十氏人(やそうじびと)の 手向(たむ)けする
恐(かしこ)の坂に 幣(ぬさ)奉(まつ)り
我はぞ追(お)へる 遠き土佐道(とさぢ)を
巻6 1022 詠人 不詳
所在地 海南市下津町引尾 立神社境内
揮毫者 大田 達雄氏
建立日 平成16年11月28日
この万葉歌碑は、仁義から有田へ越える「賢(かしこ)の坂」のふもとにある「立神社(たてがみしゃ)」の境内に平成16年11月に建立されたものである。
「万葉集」の中に、天平11年 石上乙麻呂(いそのかみおとまろ)卿が、久米若売(くめのわかめ)との不倫の罪によって土佐へ流される時の歌として四首の歌が収められている。その中の一首がこの「恐の坂の万葉歌」で、もう一首が先月寄稿した「大崎の万葉歌」、そしてこの二首は対の歌とされている。
天平11年というと奈良時代の中頃、聖武天皇の時代である。奈良の都きっての貴公子である石上乙麻呂が、当時政界きっての実力者であった藤原宇合(ふじわらのうまかい)の妻久米若売(事件の起こった当時宇合は既に亡くなっていた)と深い仲になっていた罪で、乙麻呂は土佐の国(高知県)に、そして若売は下総の国(千葉県)に流された。
一方は風貌優れた名門物部氏の貴公子、片方はこの時代の実力者の若い未亡人、この二人の恋と配流の事件は格好のスキャンダルとなり、あっという間に都中に広がったのである。
この歌の意味は「父君にとって私は最愛の子供です。母君にとっても私は最愛の子供です。都へ上る多くの人々が、この坂で坂の神に手向けをして、意気揚々と都へ向うのに、私はここで坂の神に御幣をお供えして、これから遠い土佐への道を進んでゆくのです。」という悲哀のこもった歌である。
昔から仁義の百垣内から吉備の田角への坂は「賢の坂」あるいは「賢越え」と呼ばれ、仁義と有田を結ぶ重要な街道で人々の往来や物資の運搬が頻繁に行われていたのである。
ここ立神社境内には二本の大巌が屹立する。大小の大巌が相並んで屹立する様は荘厳で、その勢いを恐れ敬って立神と称したのであろう。
紀州語り部 大峯 登
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