小畑の万葉歌碑
足太(あて)へゆく 小為手(さいで)の山の真木(まき)
の葉も 久しく見ねば こけむしにけり
巻7 1214 詠人 不詳
所在地 海南市下津町小畑 熊野古道の蕪坂
揮毫者 小西 浩太氏(当時高校生)
建立日 平成8年12月23日
この万葉歌碑は、平成8年12月に熊野古道のここ蕪坂に建立されたもので、この歌に詠まれている「小為手の山」については「紀伊国名所図会」の中に「才阪、小畑村(現海南市下津町小畑)の領分にて峠を在田郡との境とす。万葉集の「小為手の山」を「サヰデノヤマ」と訓み、其の「さゐで阪」を訛りて「才阪」といへるなるべし」と記されている。従ってその所在地は、海南市と有田市の境である蕪坂の峠あたりとされる。
又、歌中の「足太」は有田地方を指し、「真木」は優れた木のことで、この歌では杉の大木とみるのがふさわしい。 又、「こけ」については針葉樹の樹皮で生育する糸状の地衣植物「さるおがせ」と見るべきだろう。
歌の意味は「足太(有田地方)へ行く途中の小為手の山の杉の大木は、久しく見ない間にこけがむしているよ」であろう。
ここ蕪坂においてはもう一首万葉歌が詠まれており、この歌は蕪坂を少し下った所にある「蕪坂王子」のそばに有田市の宮原愛郷会によって建立された万葉歌碑に刻まれている。
又、奈良時代の仏教説話集である「日本霊異記(にほんりょういき)」にもここ蕪坂での説話「村童の戯れに木の仏像を刻み、愚なる夫これを砕き破りて、以って現に悪死の報いを得し縁 第二十九話」が記載されている。このようにこの地は古来より人の往来や物資の運搬が頻繁に行われた重要な街道の拠点であったのです。
歌碑より少し南へ進むと、右手に眼下の長保寺から下津湾までが見通せる。紀州徳川の初代藩主 頼宣公が熊野詣での折、この下津湾から長保寺に至る地形が、三方を険しい山に囲まれ、「攻めるに難く、守るに易し」の要害の地であると判断し、この長保寺を紀州徳川家の菩提寺に定めたという。そして万一和歌山城が落城した折はここ長保寺を最後の砦として決戦に臨む腹づもりであったのだ。
紀州語り部 大峯 登
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