俳句とふるさと 木村春燈子
夕立や墨絵となりし紀州富士
私のふるさとは、紀ノ川の河口より数キロ遡った高野山に近い(現)和歌山市川辺、当時は地名が示すように川の流れに沿った小さな農村兼漁村で、鮎漁など紀ノ川の幸に依存していた。 私はこの川の流域に生れ、遊び、そして育った。
今年の夏、母の五十回忌に久しぶりに帰省した。
百年の梁の太さや餅を焼く
餅焼くやぷ〜と膨れて母の顔
六人の男の子育てし吾が母の五十回忌に喜寿の末っ子
生家の周辺は一変していたが、紀ノ川と紀州富士は変わらぬ姿で私を迎えてくれた。
紀ノ川の夕暮れは特に素晴らしい。終局の紀伊水道にそそぎ込むまでの幾曲り、彼方の海の果てに沈みゆく太陽、逆光の堤防から眺めた川の流れは、あたかも巨大な一本の喪の帯を広げたようだ。川を隔てた正面には通称、紀州富士と呼ばれる龍門山の勇姿が望める。やがて夕闇が川原を包み、その帳の奥からせせらぎの夜想曲が聞えはじめる。
月見草川原の石のみな丸し
ハーモニカ聞ゆ堤や月見草
ふるさとと言えば小学校もなつかしい。学んだのは、昭和十四年からの六年間、この間、大東亜戦争などもあって、すべてに厳しい耐乏生活であったが、それだけに又、ひとしお思い出も深い。約六十年振りに訪れた学び舎は、校名も川永村小学校から和歌山市立川辺小学校に変わり、校舎も近代的に改築されていたが、昔から学校の象徴でもあった楠が歓迎の葉音を立ててくれた。
尻上り出来て見上ぐる鯉のぼり
目薬を垂らす唇楠若葉
幼い頃の記憶は心の中でイメージ化してしまうものか、悪戯の限りを尽して遊んだ校庭は、もっともっと広かったように思う。
また、学校から百米ほど隔てて、クラスの憧れのマドンナの白壁の家があった。彼女の休んだ日などは、校庭の端から眺めると、白壁が太陽に眩しく輝いていたものであったが、今はその白壁も私がこれまで歩んで来た暦日と同じだけの年輪が刻み込まれていた。
マドンナの目尻の皺や青蜜柑
学友の姉に憧れ啄木忌
むっとする桑畑の中を戻りながら、定年後はこの辺りにアトリエを建てて、日々、紀ノ川と紀州富士を眺め、絵を描きながら余生を過したいと考えていた頃もあったことをふと思い出していた。
つたない文章をつづり終えた今、閉じた瞼に浮ぶは、ふるさとの山や川、幼い友の誰も彼もが…………。 想いは遠い遠い秋の夜である。
心いまふるさとにある焚火かな
明日読む頁に栞秋灯
以上
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