建立日 : 平成15年 2月 吉日
この歌碑は平成15年 2月築地の国道370号線の南側に建立されたもので、歌中の「名高の浦」は海南市名高にあった砂浜で、万葉の時代は現在JRが走っているあたりが海岸線で、遠浅のきれいな砂浜が広がっていた。
この海岸線の状況を表わす地名としてこの「名高」の隣の地区「日方」は、ここらあたり一帯が干潮時には広い「干潟」となったことに由来する地名である。「紫」は名高の浦の枕詞で、「愛子地」は「まなごっち」と読みきめの細かい砂地のことである。
歌の意味は「名高の浦のきめが細かく美しい砂地に、袖を触れるだけでその上に寝ることもなく終わるのだろうか」であるが、更に深く解釈すると「名高の浦の砂地のようなきれいな恋人に、袖を触れるだけでいっしょに寝ることもなく私達の恋は終わるのだろうか」であろう。
歌碑の建つこの周辺の移り変わりは激しい。大正から昭和の年代にかけて歌碑の北側には「日東紡績」が活発に企業活動をし、歌碑の南側には「昭南工業(株)」を経営する「玉置家」の大邸宅があった。
日東紡績はその後この地から撤退し、昭和45年にはその跡に「ジャスコ」が進出、又昭和53年には「海南ココ店」が開業し、「栄通り」等に出店していた地元商店もこの地に集まり「海南一番街」として大いに賑わった。
しかし交通の便が良くなったことが裏目となって、客足は和歌山や大阪へと移動し購買力は著しく低下してしまった。現在では「ジャスコ店」は撤退し、「ココ店」も食料品店以外ほとんどのテナントは退去してしまっている。
又「玉置家」の大邸宅も細かく切り売りされ、今は一般の住宅地となってしまった。
撤退した「ジャスコ店」の跡地には、海南市民病院が近々移転してくる予定だという。