1585(天正13)年、羽柴秀吉は紀伊を平定したが、その終局時点で行われたのが太田城水攻めである。
秀吉の紀伊侵攻に太田左近宗正を大将として、約5000人が太田城(現和歌山市太田)に立てこもり、10万余人の秀吉軍に対して強く抵抗した。
これに対して秀吉は城を水攻めにした。秀吉は5日間ほどで全長5kmにおよぶ水攻め堤防を築造したとみられる。現在、出水地区に堤防の一部が現存している。
開城に際し秀吉は城内の主だった者53人の首を求めたが、他の者は助命し、元の土地で農耕を行うことを許した。その際、兵農分離の基礎である刀狩を実施したことで知られている。
秀吉が水攻めを行った理由については諸説あるが、注目されるのが、寺社王国紀伊を制圧し支配するにあたり神威を示すためとする説である。
この説では、日前宮の目前である太田の地で、籠城者が秀吉軍を防ぐ頼みとした水(濠)を逆に利用して攻めた。秀吉は太田城水攻めで、水も制御する統一権力者としての力を見せつけたのである。因みに秀吉の3大水攻めは太田城を含め、備中高松城(岡山県)、武蔵忍城(埼玉県)である。来迎寺(らいこうじ)は太田城の本丸跡で城の範囲は、現在の来迎寺(らいこうじ)、玄通寺を中心に東西250メートル、南北200メートルで周囲に深い堀をめぐらしたという。
以上
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