この万葉歌碑は昭和28年5月にここ藤白坂の登り口に建立されたもので、歌中の笥(け)はご飯を盛る器のことである。歌の意味は「家であったならば、飯笥に盛って神さまにお供えするものを、今は旅の途中しかも囚われの身なので、椎の葉に盛って差し上げることだ」であろう。
詠み人の有間皇子は、孝徳天皇の皇子で有力な皇位継承者の一人であった。孝徳天皇没後の斉明4年(658) 従兄の中大兄皇子の謀略にかかり謀反を企てたかどで捕らえられる。そして紀の温湯(現 白浜温泉)で静養中の斉明天皇(中大兄皇子の母)と中大兄皇子の元へ護送される。この歌と岩代で詠まれた「結び松の歌」二首は、この護送される途中で詠まれた歌とされている。この二首の歌からは、これから向かう紀の温湯での裁きに対する不安とおののき、又それから逃れようと神に祈る皇子の気持がひしひしと伝わってくる。そして紀の温湯で天皇と中大兄皇子の尋問を受けた後大和への帰路の途中、ここ藤白坂で絞殺され、19歳の若い命ははかなくも散ってしまったのである。
今は皇子が絞殺されたという終焉のこの地に皇子の墓石と並んでこの万葉歌碑が建てられている。
この万葉歌碑の近くにある藤白神社の境内には、若くして命を絶たれた有間皇子を慰撫するために建立された有間皇子神社がある。バレンタインデーの日には多数のチョコレートが供えられているという。
藤白峠への登りは、この万葉歌碑を過ぎた辺りから、後鳥羽上皇の熊野参詣に従駕した藤原定家が「熊野御幸記」で「攀じ登る」と表現した急坂が始まります。
私の万葉歌碑めぐりは、今回をもって終了します。
旧下津町の万葉歌碑6基、旧海南市の万葉歌碑9基 計15基の万葉歌碑をすべて紹介させていただきました。1年半近くの掲載でしたが、皆様方に読んでいただきありがとうございました。