今年はTCC創立50周年、川崎工場建設当時の思い出を綴りました。
当時、私はアルドックス装置の担当でした。プラントの運転開始はスチーム・クラッキング装置より2年程度後でしたが、企業化に向けての作業は並行して進められていました。
昭和38年4月はじめから4ヶ月間、米国出張を命じられました。短い期間でしたが、初めての経験でもあり一寸したカルチャー・ショックを受けて帰国しました。
初めの2ヶ月間は東部ニュー・ジャージー州にあるエッソ技術センターで運転マニアルの作成に取り組みました。リーダーの古久保晋三さんに村山哲也さんと私の二人が随行しました。タイピストの若い女性が坂本九ちゃんの“上を向いて歩こう”を楽しげに口ずさんでいました。“スキヤキ・ソング”という曲名で流行しているのだそうです。文化の流れはアメリカから日本への一方通行が当然と思っていた私にはいささか驚きでした。失恋の曲がスキヤキに変わっているのも不思議でした。
後半の2ヶ月は南部ルイジアナ州のバトン・ルージュ製油所で実習をうけました。この時には石川峰男さん、通山榮さん、松永英二郎さん、武井輝雄さんの4人の皆さんが加わり一変に賑やかになりました。
アパートを借りての共同生活が始まりました。調理担当は石川さん、材料は近くのスーパーで調達しました。広い店内には品物が溢れるほど並んでいました。米、味噌、醤油、何でもありました。米はカリフォルニヤ産でしたが日本で食べるご飯より美味しいくらいでした。柔らかくて分厚い牛肉、プリプリのでっかいシュリンプ、わたり蟹のおばけのようなクラブ、毎晩豪勢な宴会でした。それでも一人当たりの食費は一日2ドル(当時の為替レートで720円)かかりませんでした。安くて美味しいものがいつでも簡単に手に入る、これこそ豊かさの象徴かと感心したものです。
当時は人種差別撤廃の法案が成立して間もない頃でした。工場の食堂やトイレには“WHITE”“COLOR”の表示がまだ残されたままでした。あなた達は“WHITE”を使うようにと云われた時には一寸複雑な気持ちになりました。アメリカ大統領は現在黒人です。50年経つと世の中随分と変わるものだと思ったりしています。
肝心の実習の方はサッパリでした。リアクターに触媒のコバルトがガチンガチンに詰ってしまいプラントがずっと停まった状態だったのです。ダイナマイトによる粉砕除去を検討していました。そのせいか川崎の試運転もトラブルの連続でした。ダイナマイトの出番は無かったものゝ今となっては懐かしい思い出です。
以上
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