氏 名
松下 庄蔵
 所 属
東燃総研OB会
 掲 載 日
平成22年12月16日
表 題

潤滑油開発の思い出(トラクターは鳴いている)

本   文 


 この度総研OB会の先輩より潤滑油について投稿を勧められ、30年ほど前のトラクター油開発時のエピソードについて紹介いたします。
 トラクターのブレーキは焼結銅合金と鉄板との間の摩擦を利用するもので、その間に挟まれた潤滑油の摩擦係数が高いとスティックスリップ現象を発生してブレーキが壊れんばかりの異音が出ます。また逆に摩擦係数が低いと人間がブレーキを踏む力では制動できずに暴走して事故に繋がりますのでこの潤滑油には適切な摩擦コントロールが要求されます。

 当時総研には摩擦板と鉄板の間の摩擦評価機としてSAENo2摩擦試験機という自動変速機油の摩擦特性を評価する試験機がありました。トラクターメーカーの他社純正油をこの試験機で評価して同じ静摩擦、動摩擦、摩擦波形になるように摩擦調整化合物を配合した試作油はトラクターメーカーによる実機試験で激しい異音(メーカーはブレーキ鳴きと云う)が発生しました。SAENo2試験機とトラクターのブレーキとでは摩擦板の潤滑条件(表面粗さ、速度、剛性など)が違いすぎるためで、その後からはトラクター実機を使ってブレーキ鳴きと踏力の両方に満足する油の研究開発が始まりました。

 メーカーの実機試験のやり方をMのエンジニアやラボの人達と一緒に確認し、総研でのトラクター8の字旋回走行試験で試作油のブレーキ鳴き・踏力の評価を実施しました。キャリーオーバーといって一旦摩擦板に摩擦調整化合物が吸着すると次の試験油の摩擦に影響するので試験油ごとにブレーキを分解洗浄し組み立てが必要となります。また試験油も10Lづつブレンドしなければならず、人海戦術なみのダサイ研究スタイルとなりました。
 最終的にある種の物理吸着型摩擦調整化合物を見出すことで、メーカー試験に合格する油を開発し、製品として納入する事が出来ました。しかしMの担当者と祝杯を上げたのもつかの間、第一ロット品がメーカーの出荷テストでブレーキ鳴きを発生して回収する羽目になりました。メーカーの実機試験に合格した油と同じフオーミュレーションで和工にて実生産したものであり分析結果から異常は認められなかったので、これは摩擦材の表面粗度などハードの方に問題があるのではないかとのことから、ブレーキの摩擦板を組み付ける前にトラクター油で初期馴染みをつける工程をメーカーに増やしてもらった結果、出荷時の鳴きの問題は解決しました。

 所が半年程して新製品の田植え機にもトラクター油を供用したいが、田植え機は水田で使用するために水分の混入を想定して水0.5%混入してもブレーキ鳴き、踏力ともに満足するトラクター油の開発をメーカーより要請されました。

 摩擦調整化合物の添加量と同じようなレベルの水の混入は水分子の大きさや吸着活性から通常の概念の摩擦調整化合物(脂肪酸エステル、リン酸や亜リン酸エステルなど)では水との競争吸着に負けてしまい、水添加と同時に摩擦係数があがってブレーキ鳴きが発生しました。潤滑油添加剤メーカーの推薦する添加剤で満足できるものがなく、総合化学薬品からイメージにあう薬品を取り寄せて評価した結果、水を10倍の5%混合しても摩擦に影響を与えない摩擦調整化合物を見出しました。原理は摩擦面に吸着した摩擦調整化合物が水分子を親和力で取り込こんで水分子が摩擦面に到着するのを防止するというものです(後日平成5年に特許申請)。

 しかしトラクターメーカーの複数購買政策で他に開発できた他社油がなかった事や、田植え機の水分混入に対するメーカーサイドでの密封対策により従来のトラクター油で対応されることになり、残念ながら我々の開発油は幻の候補油となりました。

 潤滑油は摩擦摩耗を制御する能力以外に沢山の機能が要求され、一見単なる油にしか見えませんが、ノウハウの詰まった高度な機能性液体であることを知っていただけたらと思います。

 自動車の燃料は将来ガソリンから電気に置き換わっても潤滑油やグリースは不滅です。

                                  以上

トラクター油職場
今のトラクターと私

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