善福院は、建保2年(1214 鎌倉時代前期)栄西禅師によって創建されたとされる臨済宗 廣福禅寺の五ヶ院の一つであった。廣福禅寺は古くは七堂伽藍を備えた大寺であったが、大旦那の加茂氏が豊臣秀吉の紀州進攻によって没落しその後ろ楯を失った。
その後は高野山に頼って真言宗に宗旨替えをし、寺の維持管理を計った。更に徳川期に入って頼宣公が紀州藩主となった時期に天台宗に転宗し寺の維持管理を計ったが衰微の一途をたどり、明治の初期までは三ヶ院あった塔頭が、現在では善福院だけとなっている。
現在の善福院 釈迦堂は廣福禅寺の本堂であった建物で、鎌倉時代後期の禅宗様式の典型的な建築として、鎌倉の円覚寺舎利殿、山口県の功山寺仏殿と並び賞されている。
この釈迦堂は二層の建物に見えるが、一層目に見えるのは裳階(もこし)と呼ばれる軒下壁面に造られた庇状の構造物で、これはこの釈迦堂の他法隆寺金堂、薬師寺東塔等に見られる。堂内に入ると木割(きわり)が太く禅宗様式特有のがっちりとした感じを受ける。太い柱は上下端に丸みを持たせてすぼめた粽柱(ちまきばしら)で床面の礎石に置いた礎盤の上に乗せている。床面は瓦を布敷きに敷き詰めておりこれらも又禅宗特有の様式である。
ここで当寺院に関わる裏話を一つ。初代の紀州藩主徳川頼言公が紀州入りをして紀州藩の体制を整える中で、力を入れたのは組織や財政のほかに菩提寺の選定であった。菩提寺といっても頼宣公の考えは藩主の菩提を供養するだけでなく、居城である和歌山城に万一の事があり撤退となったた場合、この菩提寺を最後の砦とし、この地で紀州徳川の存亡をかけた最後の決戦を行う腹づもりであったという。
頼宣公は和歌山城からある距離を置いた要害の地にある由緒深い大寺を調査し、その候補を三つの寺院(海南市下津町の長保寺-後に菩提寺に選定、海南市下津町の廣福禅寺―後の善福院釈迦堂、和歌山市六十谷の大同寺)に絞り、更に寺を守るための地形、城からの交通や物資の補給の便、篭城の適否等を仔細に検討して、長保寺を紀州徳川家の菩提寺に選定したという。
紀州語り部 大峯 登
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