海南市別所にある願成寺は平安末期の久寿2年(1155)に建立された寺院である。
今からおよそ850年程前海南市多田の千光寺の別当職であった湛慶上人が、鳥羽天皇の皇后であった待賢門院(藤原璋子)の後生を弔うために千光寺の別院として現在の地に願成寺を建立したといわれている。又、現在の所在地別所の地名はこれに由来している。当初は七堂伽藍が整い多宝塔を初め24堂塔を有する真言宗の大寺院であったが、度重なる戦火等によって衰微した。更に徳川時代になって寺院の一部が和歌浦の東照宮へ移築され、その時点で当寺院は和歌浦 雲蓋院の末寺となり、宗旨も真言宗から天台宗に転宗している。
仏道の修行者が自らの身を犠牲にして三宝を供養する方法を捨身というが、その中に火定(かじょうー炎で身を焼き、お経を唱えながら命を絶つ)、水定(すいじょうー川や海に身を投げ命を絶つ 昔熊野で数多く行われた補陀洛渡海もその一種)、土定(どじょうー土の中に生き埋めになってお経を唱えながら命を絶つ)、投身(足を縛り、絶壁から身を投げ逆さ吊りになってお経を唱えながら命を絶つ)、飢えた動物のために身を投げ与える等があるが、願成寺のすぐ近くには湛慶上人の土定の跡が保存されている。
本尊の木像千手千眼観音坐像は鎌倉時代の作で、国の重要文化財である。この観音坐像は複雑な像容ながら均整のとれた繊細な彫刻で、衣文の彫りも深くさすが国の重要文化財、圧倒感のある観音坐像である。但し当観音像は秘仏であるため常時公開はしておらず、拝観には事前に公開日を調べておく必要がある。
又、当寺院はあじさいの寺としてもよく知られており、花時には参道や境内に植えられているあじさいが境内いっぱいに七色の花を咲かせます。
紀州語り部 大峯 登
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