幹事からのお誘いを良い機会として 忘れ去られてゆく在職中のことを披露します。
昭和36年 川崎工場浮島200号地工場の敷地建設当初
私が最初に訪問した時は浮島工場は広々とした何もない埋立地で400号地も造成中でした。沼地状態の中の道路予定地には沈下防止のため日本鋼管の高炉残材を大量に投入され建設した道路が出来ているものの、アフリカ砂漠で見られるような凹凸な道路状態でした。川崎駅から工場へのアクセスは浮島地区への公共交通手段はなく、且つ浮島橋のずっと手前から未舗装で工場設営・建設担当の榎本・高垣先輩の運転するジープに随分と厄介になりました。
建設事務所はプレハブで石油ストーブ暖房ひとつしかなく、寒さと浮島砂漠と凌ぐのが大変でした。大勢の工場勤務者が工場で働くようになっても本事務所が完成するまでは倉庫建屋が事務所でした。冷房用水の断水は毎日あり真夏の暑さ凌ぎが大変だったことが思い出されます。
200号地の石油化学装置群(1/2/3SC、AC、MEK、RE、Utilities、公害防止装置)の建設
近年の記録破りの降雨量そして東日本大地震は恐怖の経験ですが関連したこと披露して置きたいと思います。
浮島200号地の地盤沈下対応と工場排水ポンプの設置
設計ベースは川崎地区の最高降雨量を処理出来るものとしましたが、近年発生する記録破りの降雨量(100-50mm/時間)では 200号地の工場排水は大丈夫か心配になります。
浮島200号地タンク地区の地盤流動化対策工事(地中スラリ壁と地下水位低下対策)
タンク地区を取り巻く道路に地中壁を設置する工事は大工事でした。大型タンク群が地盤流動化で被害を受けないようにする対策で、地下水位低下のため常時地下水を汲み上げするポンプが設置されました。地震による流動化被害は大きく報道されますが 川崎工場は先輩の努力が極めて役立っていると推察しています。
昭和55年 昭和電工より譲渡を受けた千鳥工場の立ち上げ
他社が生産を継続している工場とその管理体制(保全協力会社体制を含め)を当社に引き継ぐことは約1年間の勤務でしたが極めて異例の経験でした。
(1) 工場の分割区分分け
工場立地法上で規制する工場周辺道路から保安距離を確保し、且つ工場周辺道路を昭電と当社で分割するのが両社にとってよいか問題となった。将来の工場敷地利用に支障ないよう将来を見据えて苦慮した。
(2) 昭電と当社の工場受電力量権利の分割問題
当時は既設と新設で受電電力料金差があった。昭電千鳥工場が許されていた低額受電の総枠量は昭電と当社のどちらの受電権利かが大論議となった。幸い官庁との交渉結果、受電権利分割が許可され事なきをえた。
(3) 昭電から当社への工場運転の移管問題
消防法、高圧ガス法、電気事業法、公害防止法等を満足させるには全工場を停止後、昭電から当社に移譲した上、新たに工場管理者を変更してから工場運転を開始するのが通例であった。各法律により責任・運用権利の所有者と設備・運転者とは異なる。装置の譲渡を受けても権利の継続仕方が異なるので、逐次工場管理者の変更・移管を実施する必要があった。私の担当した電力は法律上工場装置に先立ち4月に移管された。電力管理者が東燃そして設備の責任者が昭電と異なる状態となり毎日の安全・無事を祈っていた。
昭和56年 東燃和歌山工場のBTX装置建設に本社勤務で支援
東燃和歌山工場のBTX装置建設
東燃和歌山工場FCC装置に隣接した重要地区に計画された。重要地区の使用の許可、大型タワーの工場搬入の障害、建設会社一括発注工事での予算追加要求等和歌山工場での予期しない数々の問題に直面したが、関係各位の協力を受け・解決出来たことは本社コーヂネーターとして嬉しい想い出です。更に新装置の稼働後、FULL稼働が続き、且つ高利益を上げたことは嬉しいことでした。
平成2年よりの 東燃化学本社、東燃タピルス勤務
微多孔膜の商業化装置(@千鳥工場)の立ち上げ
研究所からパイロット設備を移管して始まった開発の仕事は、全体としての正式な組織もなく研究(河野君)建設(葛野君)運転(若松君)諸氏らとの週1回の定例会議により、装置・運転改良の仕事が極めて効率よく進められた。本当に珍しいプロジェクト運営形態でした。リチュウム電池への開発途上ではSONYさんから大変強い発破があった。
今日ある成功は経営形態が変化しつつあるものの、那須工場そして韓国新工場の建設等多くの後輩が参加した上の創意・工夫・努力があってのことと思う。うれしい限りです。
東日本大震災が起きたこの年に生きていることを感謝しながらこれからを過ごしたいものです。
東燃グループOB会の一層の発展と皆様のご健康をお祈りいたします。
以 上
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