先日は、「OB会だより11号」を送っていただき有難うございました。ホームページへ投稿の依頼がありましたので、初めてですが、若かりし頃の思い出話を聞いていただければと投稿しました。
体力的に野球の現役続行が無理となったころ、箕島高校からの推薦で、和歌山県高野連の公式審判委員にと、云われるままに従事することとなりました。昭和41年(37歳)の時でしたが、それ以来、平成16年まで約40年間勤めてきました。この間の実績を高野連が詳細に記録してくれていまして、主審、塁審合わせて2847試合の審判をしたこととなっています。審判員にも定年(60歳)がありまして、1640試合が定年までの公式戦で、60歳以降、72歳までの1207試合は、練習試合や社会人野球のオープン戦等でした。
高校生らが、繰り広げる熱戦を冷静な目で公正に瞬時に判断していくことは、永年の経験で身につくものですが、覚悟の上とは云え、真夏の炎天下、猛暑の中では少々ですがきついときもありました。
箕島高校についてですが、私が審判を引き受けた時期とほぼ同じ頃、尾藤監督が青年監督として颯爽と就任され、皆様もご承知の通り、昭和43年には東尾投手を率いて甲子園初出場。その2年後には、島本講平投手で選抜優勝、昭和54年には、石井と島田バッテリーで春夏連覇の偉業を成し遂げました。その夏の試合で、星陵と延長18回の死闘を制する、高校野球史上に残る大ドラマがありました。尾藤監督の思い出で一番印象に残っているのは、平成3年ごろの春、湯浅の「なぎの里球場」で行われた星陵高校との練習試合でのこと、物凄い当たりをされて、ベンチから飛び出して来た尾藤監督が「あれは何者か」と目を丸くしていたのが忘れられません。その怪物のような選手が後のメジャーリーガー「松井秀喜」であったのです。
野球審判は、主役の選手たちと共にゲームを支える重要な役目です。永年達者でやってこられたのは、この審判を一生懸命やらせていただいお陰と感謝している今日この頃です。
以上
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