了賢寺は海南市冷水浦に建てられている浄土真宗本願寺派の寺院である。
当寺院の由来は地蔵峰寺の項でも触れたように、文明8年(1476)の春、藤白峠で浄土真宗本願寺八世蓮如上人と冷水に住む喜六太夫が出会い、喜六太夫は蓮如上人から浄土真宗への教化を受け了賢という法名を授かった。
以後了賢は浄土真宗の布教に邁進する。先ず冷水の飯盛山に冷水道場を建て布教を始める。文明8年10月に蓮如上人より冷水道場の本尊として「二尊像(親鸞と蓮如二人が描かれた絵像)」を賜り、ますますその布教に励んだ。現在道場の在った飯盛山の山頂には、了賢の墓と松樹庵それに経石塚が建てられている。
信者数が増え道場が手狭になってきたところで延徳4年(1492)了賢が亡くなる。同年手狭になっていた道場は信者たちによって飯盛山から中ノ浦に移され、寺の名を「飯盛山 了賢寺」とした。
以後了賢寺は冷水御坊として浄土真宗普及の中心となる。その後御坊は永正4年(1507)実如上人によって冷水の了賢寺から更に信者の集まりやすい黒江の浄国寺に移され、天文19年(1550) 世は戦国時代であり宗門を守るため証如上人によって浄国寺から要塞のような和歌浦の弥勒寺山(現在の秋葉山)の山頂に移される。更に永禄6年(1563)顕如上人によって和歌山市鷺ノ森(現在の鷺森別院)に移されている。
喜六太夫が蓮如上人から賜った「二尊像」は浄土真宗本願寺派の宗宝として鷺森別院で大切に保管されている。
了賢寺のすぐそばに蓮如上人が自ら掘られたという「蓮如上人お手掘りの井戸」があり、いまもきれいな水が湧き出ている。「冷水」の地名は、波打ち際のすぐそばのこの井戸から冷たい清水が湧き出た故事によると伝えられている。
紀州語り部 大峯 登
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