亀池は、県立自然公園「生石高原」の一角 海南市阪井にあり、宝永7年(1710)「井澤弥惣兵衛為永」によって造られた灌漑用の池で、貯水量約540万立方米、堤防の長さ約98米、堤防の高さ約16米、池の周囲が4キロ米もある県下有数の人造池である。弥惣兵衛はこれを人夫延べ5万5千人、工事期間約3ヶ月という短期間で完成させた。この池のお蔭で当時阪井はもちろん亀川、現在の和歌山市安原、内原、毛見等10ヶ村の田畑が潤ったという。
亀池の中央部に中島があるが、この島は弥惣兵衛が広い池で発生する波浪によって堤防が損傷を受けるのを防止するため、又 池の景観のために残した以前の中山で、島には登録有形文化財の「双青閣」が建てられている。
双青閣は、明治4年に廃藩置県が行われ紀州藩主徳川頼倫公はその居城であった和歌山城を明治天皇に引き渡すこととなった。紀州藩は頼倫公の住居として和歌浦東照宮の一角に新居を造営することとし、既存の湊御殿や名草御殿、千草御殿を移築、全体を書院建回廊式という御殿様式として造営し、「双青寮」と名付けた。ここに移った頼倫公は大正6年に自分好みの二階建ての建物を造り、これを「双青閣」と名付けた。この双青閣は一般の住宅とは異なり、中央部の通し柱から四方のすべての部材を吊り張りで組み立てるという五重塔や城の天守閣と同様な様式で建造されている。
この双青閣は、昭和43年に和歌浦東照宮からここ亀池の中島に移築され、池中央部の中島や中島への吊橋とともに亀池景観のポイントになっている。
又、池周辺には桜やもみじが多数植えられており、春の桜祭りや秋の紅葉時には大勢の人で賑わう。
亀池を築造した「井澤弥惣兵衛為永」は紀州藩のみならず、関東 特に埼玉での新田開発と利水事業に業績をあげた偉人であり、次回掲載の「亀池と双青閣(その2)」で「井澤弥惣兵衛為永」についての解説をしたいと思います。
紀州語り部 大峯 登
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