海南市阪井にある亀池を築造した「井澤弥惣兵衛為永」は海南市野上新に生まれ、28歳で紀州藩二代藩主 徳川光貞に召し出され以後吉宗を含む五代の藩主に仕え、勘定奉行として紀州藩の新田開発と利水事業に従事した。そして亀池築造の他 紀ノ川の小田井用水、藤崎井用水、紀美野町の佐々用水、海南市・和歌山市の亀の川改修等を行い、紀州藩の新田開発と利水事業にその手腕を発揮した。
紀州藩から出て八代将軍となった徳川吉宗は窮乏を極めていた幕藩の財政を立て直すため、倹約行政と新田開発、殖産興業を柱とする財政再建(享保の改革)を目指し、その新田開発を実施させるため紀州藩で配下にあって新田開発に業績を上げた井澤弥惣兵衛を江戸に召し出し、幕府の新田開発とその利水事業に当たらせた。
弥惣兵衛の業績は勘定吟味役として関東一円だけでなく、越後、信濃、美濃、伊勢、近江等東日本全域に渡って見ることができる。
その代表的な事業が、武蔵国見沼(みぬま)での見沼の干拓と見沼代用水(みぬまだいようすい)の開削である。この干拓と遠く利根川からの取水によって1,200町歩の新田と15,000町歩の田畑の灌漑が可能となった訳である。
利根川から見沼までの水路には、水位差のある河川を通船できる設備「見沼通船堀」、既存の川をまたぐ「掛渡井(かけとい)」、川の下をくぐる「伏越(ふせごし)」等の工夫がなされており、特に見沼通船堀は現在のパナマ運河と同じ閘門式運河で、パナマ運河に183年も先駆けて実用化された通運施設である。この見沼代用水の開削によって江戸と武蔵国見沼が船便で直結された訳で、当時の水路周辺の農耕を始め経済に及ぼした恩恵は計り知れないものがある。
このように弥惣兵衛は深い知識と高い技術を併せ持った偉人で、現在のさいたま市緑区にある「見沼自然公園」内には「井澤弥惣兵衛為永生誕350年記念銅像」が地元の厚志によって建立されており、さいたま市の見沼代用水土地改良区の人々には地元の恩人として深く感謝され、尊敬されています。
一昨年(H.22)12月から海南市に存在する国宝、国指定の重要文化財、県指定の文化財を中心に紹介してきましたが、今回の案内をもって海南市の重要な文化財すべてを紹介しましたので本案内を終了させていただきます。1年半もの長期にわたり御愛読いただきありがとうございました。
紀州語り部 大峯 登
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