氏 名
福島 達昌
 所 属
東燃本社OB会
 掲 載 日
平成24年05月30日
表 題

 米寿を迎えて

本   文 


 今年の東燃本社OB会の総会が私の誕生日と同じであったこともあり、乾杯の指名を頂き終生忘れえないOB会となったことに感謝する次第です。

 旧制中学5年生の昭和16年12月8日大東亜戦争が勃発したこともあり、卒業が12月に繰り上げとなり昭和17年1月に東亜燃料を受け9月から勤めることになった。

 配属された総務課勤労係には男は2年先輩の箕島高校卒業の方と私だけであとは女性が6名いるだけでした。

 和歌山工場長は日石から来られた黒澤武雄常務取締役で、金縁の眼鏡をかけ毎日社宅からステッキを片手に出勤されていた。

 終戦は千葉の陸軍予備士官学校で昭和20年9月9日退役した。帰りの紀勢線の下津トンネルを出た途端、窓越しにB29で破壊された工場を見て涙がこぼれた。

 復職して一番嬉しかったのは昭和24年7月の製油所再開の指令であった。

 現在会社の浮沈とともに歩んできた一人として記述してみますと、戦時中の昭和18年に陸軍から会社にマレー工場建設の命があり、全社より30名が選ばれ建設に従事し、戦後全員無事帰還したこと、これを知るのは現在浅田益雄元秘書室長(監査役)だけである。

 戦後まもなくGHQによりE-1桟橋を国が整備拡充し石油荷役の下請けをした。

 これが唯一の収入源であった。その他の従業員は松山彬製油課長が社長になり初島化学(株)を設立し、製氷、農業用石灰、製塩の製造に明け暮れる毎日でした。

 運行課が独立して運送業務に、第二工場予定で購入した楚都浜に初島メリヤス(株)で肌着の製造、豚の飼育、食料品増産のため麦やさつまいもの農耕、修理工場では、農耕器具の製作など、生き抜く為に色々と手がけたことで、今日の東燃があるわけであり、苦しかっただけに今思うと良い経験をしたと思っている。

 有難かったことは、当時他社では給与の遅配、欠配があったが当社は決まった日に支給された。

 私の長男は三井物産で現在イスラエル駐在ですが「おやじ」の会社は良い会社だ。退職しても面倒見てくれる会社なんて今時珍しいと言っている。本当に良い会社に勤務でき感謝している次第です。

 今回のOB会出席のための上京は、娘婿の半田が全て手配してくれ10日から13日まで全て世話を受け、中でも家族皆に囲まれた12日の米寿の会食は楽しかった上に孫達3人が支払ってくれ涙涙でした。

 帰りの飛行機では、「米寿おめでとうございます」とのメッセージを頂き、本当に忘れられない米寿となったことに感謝し筆を置きます。
 

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