街や駅 大きく変わり 川崎よ 来ることのなき 20年思う
喜寿祝い 喜びくれし 古き友 次は米寿と 優しき言葉
今からもう53年も前の昭和34年、石油の需要は毎年増大してゆく高度成長の時代。その早春、創立間もない日網石油精製への転出を命じられ、3月14日朝 和歌山・初島駅から東京本社へ向かった。
初島駅は見送りの沢山の人で溢れ、箕島の芸者さんまでいた。これは私のためではなく、同じ列車で本社転勤をされる鬼丸・内藤両大先輩のためであった。 私の同僚たちは紀勢西線沿いの浮屋根タンク上で「玄ちゃん頑張れ!」と大書した板を持って送ってくれた。
当時サンケイ別館にあった東燃本社で恐るおそる石沢善重郎新社長にご挨拶した。
その後まもなく日網石油精製は日本橋・小舟町の小倉ビルに
本社を移し、我々はトッピングタワーの図面から書き始めた。
静かな和歌山の海辺に慣れたこの身体が、日本橋三越前で地下鉄を降りる通勤に急転したので、車のクラークションが近くで鳴ると跳び上がらんばかりであった。
川崎・浮島は埋立が終わったばかりの何もない野原で、カモメが歩いていた。それからの建設工事は、昼夜皆が懸命に働いた。
身体は辛くも、心楽しい日々であった。
あれから50年・・・ 時代は大きく変わりこの私までが喜寿を祝って頂けるとは・・・
嗚呼! 心より感謝申し上げます。
以上
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