6.ペン、インク、ソロバン、タイガー計算機、フリーデン計算機
元帳、補助簿などの記帳は、ペンにインクをつけて一字一字丁寧に書き、金額の集計は総てソロバンで行った。皆結構ソロバンは達者で、中には、5~6桁、20口(くち)位の計算を暗算であっという間に仕上げてしまうほどの名手もいた。
時々インク壺をひっくり返して、書類、衣服を汚し台無しにしてしまったこともある。
乗除計算には手回しのタイガー計算機が威力を発揮した。特に原価計算過程での費用の配賦計算は数人で分担して出来るので、それぞれ数台のタイガー計算機を使って一斉に始める。その手回しのカシャガシャした重高音が部屋中に鳴り響き、それに計算結果を伝えあう大きい掛け声が重なって実に賑やかな息の合った一時であった。
2~3年後、電子管式の「フリーデン計算機」が備え付けられた。手回しのタイガー計算機と違って、電気で計算出来るなんて夢のようで、大型の機械の周りに集まって交替でキーを操作しながら、オレンジの光で表示される数字に目を輝かせた。しかし、初めの頃は真空管が切れて動かなくなる故障が多く、しばらくタイガー計算機をも手放せなかった。
7.月次決算での難関〈帳尻の照合〉
毎月の「製造費」の総勘定元帳と補助簿(台帳)の照合が一つの難関であった。ずっしりした分厚い台帳には部門別、費目別に日々の取引の明細が手書きで記録されており、毎月その集計額と元帳の帳尻と照合するのであるが、これが一度で合うことは極めて稀であった。多量な伝票から台帳への転記違い、書き落とし、集計ミスなどが重なって、それを探し出して一致させるのが一苦労で数人で徹夜したこともあった。
8.原価計算の3表 、本社・工場間の連絡業務
原価計算にはSVOC様式の101表、102表、103表があった。101表は部門別、費目別明細表、102表は補助部門費用の製造部門への配賦表、103表は総合原価計算表で各表のタイトルや見出しは英文であったと思う。この原価計算表の作成は工場会計業務の中でも協力して行う花形の仕事であった。初めのうちは出来上がると本社へ担当者が持参してチェックを受けた。
本社・工場間の連絡は、主として往復文書(郵送)か電話で行われ、指示や報告に時間を要したので、このような緊急な細かい主要報告などは担当者が書類を持参して説明した。
本社にはSVOCから派遣されたハスラックさんが新しい会計システムの指導などのため常駐しており、背の高い温厚で気さくな人で時々工場にも回って来てコミュ二ケーションを図っていた。本社へ出張した折に食事に誘ってもらったこともある。
9.手間のかかった「書類の複写」(カーボン紙、謄写版、青焼き…)
現在のようなレーザー複写機、ファックス、プリンター、スキャナーなどなかったこの時代は書類の複写には手間がかかった。
カーボン紙を用紙の間に一枚一枚はさんでタイプや手書きで複写するには枚数に制限があって効率はあまりよくなかった。手書きの時には筆圧が要るので長くやっていると途中で指がくたびれてしまう。
枚数の多い書類は、謄写版(ガリ版)を使って複写した。蝋引きした用紙に文字を鉄筆で刻字して、インクのついたローラーで押圧して白紙に印刷するのであるが、その取扱いに慣れないとなかなかうまくいかない。頑張ってもせいぜいインクで手を汚すのが落ちであった。
設計図複写用の青焼き(青写真を)を大きい表の複写に使ったこともあるが、これには特別な処理が必要で費用もかかるのであまり応用しなかった。
昭和37年頃になって、新しいコピー機が導入され効率化したようである。
10.厳しい「外部監査」、「税務調査」
ロービンガム会計事務所の会計士(住田さん)の監査が厳しく、時間外になっても容赦なく行われ、反面いろいろ適切なアドバイスもしてくれたので、会計業務の改善にもおおいに役立ったと思う。
国税局の税務調査が定期的に行われたが、不定期に特別調査が実施されることがあった。特別調査の時には、調査官の宿泊先は明かされず、朝夕の送迎も、昼食の提供も一切断られた。ある日、主任係官が場内を見てみたいと言うので、気軽に工場案内のつもりで、歩きながら現場の建物、桟橋、タンク、装置などについて説明している間、時々手帳にメモをとっていたようであった。事務所へ戻るとすかさずそのメモを取り出しその物件の固定資産台帳などの関係記録の提出を求められ、資本的支出と経費の会計処理の適否を細かくチェックされた。その他の記録も一つも見逃さないぞという厳しい調査であり緊張し通しであった。
以上