その昔、大水によってしばしば川留めが行われ「越すに越されぬ大井川」と謳われ、東海道を上り下りする旅人にとって難所であった大井川。その大井川に沿ってJR東海道線金谷駅から千頭へと遡る大井川鐡道のとある駅が、私のふるさとと言ったら、私が東京生まれと知っている方たちは訝るかも知れない。
しかしながら、私が昭和19年生まれと聞けば、得心されるのではなかろうか。お察しのとおり戦中生まれの最後、最も若い疎開経験世代なのである。生まれて間もなく、戦時の東京の空襲を避け、大井川鐡道の五和(ごかと読む。現在は金谷駅から4つ目)にある父方の伯母宅に母と兄と3人で、終戦後しばらくまで疎開した。
我々より6つか7つ以上年長で、既に就学年齢に達していた方たちは学童疎開と称して地方に疎開したと聞いている。そこでは都会から来た転校生という物珍しさも手伝って、イジメの対象にされたという話をよく聞く。中には、その当時の話はしたくないという方も多いとも聞く。
そうした方たちに比べれば、私たち兄弟の疎開は恵まれていた。伯母夫婦の子供たちは既に手の掛からない年齢に達していたこともあって、子煩悩な伯母夫婦は、幼子2人を我が子同様に可愛がってくれたようである。伯母が兄、伯父が私と担当が決まっていたようで、伯父は歩いて7、8分の距離にある駅に、汽車が通るたびに私を連れて行ってくれたそうである。
今、写真で見る限りレトロなホームと駅舎はその当時と変わっていないように思える。ひょっとしたら私の小さな足跡がどこかに残っているかも知れない。
話題転じて、成人してからも父の生家がある大井川鐡道起点の金谷には何回か訪れている。昨夏、法事があって久しぶりに同家を訪ねた折、私のカラオケのレパートリーの1曲である「蓬莱橋」の舞台となった大井川に架かる橋が隣駅の島田にあることを知り、途中下車した。明治12年生まれのこの橋は、世界最長の木造歩道橋としてギネスにも登録されているそうな。そこだけに明治が残るいかにも演歌好みの景色であった。下流に島田大橋が出来て、既に利用する人とて少ない閑散とした橋を渡りながら、山本譲二を気取って一節唸ってきた。
我が人生のスタート地点となった駅、周辺の川そして橋、これらの大井川下流の景色は、幼き日の記憶に残っていないものの、“忘れがたきふるさと”として私の心象風景の中に生きている。
なお、掲載の五和駅2枚の写真は、大井川鐡道㈱のご好意により提供いただいたものである
以上