この度、第27回東燃化学OB会総会・懇親会の席上喜寿のお祝いをして頂き有難うございます。在職中の記憶に残る思い出を2回に分けて投稿させていただきます。
私は、昭和30年4月に東燃和歌山工場で社会人の第一歩を踏み出し工場で導入教育を受け、和工の製油部門で昭和36年3月まで自転車通勤で現業員として6年間勤務しました。
昭和36年4月東燃の石油化学事業進出の公募に応募し、東燃石油化学へ転籍(131名)し、和工内FCC装置の実習を経て川崎工場のNO-1スチームクラッカーのスタートアップに10月より携わりました。スチームクラッキング装置は昭和37年3月3日の0時15分フィードイン、3月8日11時に主製品エチレンがオンスペックとなり、3月10日16時にブタジエン・3月14日16時プロピレンがオンスペックとなる順調なスタートアップでした。
一方、工場の稼働が一段落した昭和37年6月28日に労働組合の設立全員集会が開かれ組合が設立、昭和38年1月26日第1回定期大会が開かれ初の運動方針が決定されました。
組合は3か年協定期限切れの昭和39年春、初の賃金交渉は東燃と同一条件で妥結、この頃から組合活動にも参加することになり、昭和40年9月から昭和42年8月まで2年間休職で組合専従となりました。
工場ではスチームクラッキング装置の交替制度の検討・要員協議・交替手当増額・都市部に相応しい総合住宅制度に労使協議が重ねられました。
昭和40年NO-2スチームクラッキング装置(エチレン年産11万トン)の政府認可を得て昭和40年2月起工式、昭和41年4月16日フィードインし72時間でオンスペックとなりNO-1スチームクラッキング装置より2日間も短縮するものでありました。
昭和42年9月製造部管理課管理係に復職、オレフィンの生産管理を担当しました。
一方、通産省は昭和42年6月エチレンプラント新設の許認可基準を国際競争力強化の観点から一系列年産30万トン以上とする決定をしました。この結果、昭和41年3月から昭和47年4月までに国内9基の30万トンのエチレンプラントが誕生しました。
(これ以降については次回の投稿で紹介させていただきます)
以上
左側写真の詳細説明
昭和30年入社115名(本社・和歌山・清水三事業所に入社)
和工ハイドロフォーマー装置前にて(昭和30年初夏)