去る10月4日のキグナスOB会では喜寿を祝っていただきまして、誠にありがとうございました。
私は、日本が風雲急を告げだした昭和14年12月8日に生まれました。2年後の12月8日に太平洋戦争が始まったという事で、12月8日は私の中で大きな意味を持っています。
戦争の記憶は薄いのですが、空襲警報で防空壕に入った事や清水が大空襲を受けた夜に兄弟で布団をかぶって逃げ、神社の燃える樹の下でうずくまった事、避難した親戚の農家から清水の町が赤々と燃えるのが見え、その時母が「もう帰っても家は無いよ」と言った一言は、今でも鮮明に覚えています。
丸焼けの中からどう生活してきたのか嫌だった記憶も薄れ、気づいて見れば喜寿を迎えていました。
OBとして現役時代を振り返る内容と思いましたが、77歳という節目に思い出すままつれづれに書いてしまった事をお詫びします。改めて振り返ってみれば、入社時の東燃清水工場や転籍後の日網石油で、多くの人達の暖かい応援や協力のお陰により、ここまで大過なく来られた事に今は感謝の念でいっぱいです。
ところで現況ですが、この6月まで消防局本庁舎の設備員として、健康状態の維持にうってつけの仕事をさせてもらいました。 やめた今も貧乏暇なしで、口は動かさないが?手足や体はできるだけ動かし、庭木の手入れ、機器等の修理、その他家庭内の日常作業も出来る範囲のことは、家内への長年の感謝を込めて行っています。2人の娘に5人の孫、うち4人は社会人になり、12月8日の誕生日には喜寿を総出で祝ってくれるようで、楽しみにしています。
OB会の皆さんも、多くの方が競馬でいう所の第4コーナーを回り直線に入ったと思いますが、もうムチを捨てゴールを一分一秒遅らせましょう。高齢者と言われてもこれからの人生、できるだけ長く健康で有意義な老後を送る事が出来ればと思います。
以上