和歌山工場に隣接する港町に、江戸初期に建てられた武家屋敷が現存しており、地元の人から「山本のお屋敷」として慕われています。今回、初めて地元民を対象に築360年の時を経て初公開されましたので紹介します。
歴史的由来は、1619年に徳川御三家の初代紀州藩主となった頼宜公の従臣の一人であった禄高800石の山本茂房が、長男である昌貞(まささだ)が病気に罹ったために勤めを辞すことになった。辞任にあたり、藩主より有田の北湊と椒浜(はじかみはま)を含めた12,000坪を与えられた。
しかし土地は荒れ放題の砂浜であったため、数年をかけて風位、降雨、有田川の氾濫を調査して、安全である北湊(現在の港町)の敷地面積2000坪に建てたのが、現存の「山本屋敷」である。11室ある40m長屋の中央には家紋を掲げた門構えと、山本家の住居及び客殿、蔵、200坪の庭園で構成されている。
特に、第6世の山本貞信の時に紀州第十代藩主である徳川治宝(はるとみ)公が訪れ、立派な客殿の書院座敷が気に入り、自ら「琴僊堂」(きんせんどう)と名付けてたびたび訪れ逗留したと言う。
建物は傷んでいるものの、地域資源として有田市は「有田市の活性化・まちづくり」の一環として「江戸時代から残る武家屋敷」として再生を検討している段階です。なおこの屋敷は和歌山0B会に所属していて故人となられた、山本昌人氏の生家でもあります。
今回の投稿にあたり、東燃OBで有田市長も務めた松本泰造氏に頂いた調査資料を基に作成しました。写真の一部も有田市 産業振興課より頂きました。
写真説明
写真-1 外壁と長屋
写真-2 中庭から座敷入口を望む
写真-3 屋敷の玄関
写真-4 殿様が逗留した部屋「琴僊堂」
写真-5 床の間
写真-6 庭園であった場所
以上