氏 名
 森瀬 康正
 所 属
東燃本社OB会
 掲 載 日
平成29年06月08日
表 題

 私の若かりし頃 ~竹橋時代~

本   文 

 私たちは、昭和39年4月、東亜燃料工業株式会社に採用され、入社した。
技術系13名・事務系4名の合計17名で、現在、6名を欠き11名が健在である。当時の日本の石油業界は、発展段階にあって、各社共に量的・質的に業容を拡大していく真っ最中であって、極めて活気があった。

 私は、入社後3年半の工場勤務の後、昭和42年秋に、本社経理部予算課に転勤となった。当時の本社は、大手町から竹橋のパレスサイドビルに移転直後、最高の立地であった。ここでは、原価計算担当であり、当時、原油の値段は、1バーレが1から2ドル台であった。今から考えると、全く信じられない数値であった。その後、第1次・第2次のオイルショック及び石油の国家備蓄等へと展開されていった。

 昭和44年春に、コンピューター部門に移り、事務部門の計算プログラムを中心にシステム開発に励んだ。当時、テレビの人気番組は、大橋巨泉を中心とした日本テレビのイレブンPMであり、彼に雰囲気が良く似ていたのか、私は良く似ていると言われた。

 昭和42年に「東燃中原基金」が発足し、『中原論文』の募集等が開始されたが、私は昭和46年秋、この第5回中原基金懸賞論文の【第一席】に入賞した。
 この論文は、企業成長の条件という論題に対して「企業の社会性優先条件下に於ける」という副題の縛りを付したものであり、諸制約条件をクリア―した上で、初めて企業は存続し成長できると規定・訴求したもので、当時としては画期的な発想であったと自負している。
 この中原論文の受賞を契機に、会社のニーズもあり、会社幹部からの薦めもあって、昭和49年頃から3年間、「公認会計士試験」に挑戦した。結果は惨憺たるもであった。計算能力等を中心に合格レベルとは程遠かった。

 その後、内部監査部門を中心に、また監査役スタッフとして監査役付なども経験させて頂き、各事業所や子会社等の業務監査を中心に、監査等を実施した。
 以上、大変に楽しく、有意義な会社生活を過ごすことが出来て、感謝している。

以上

     
 
足立猛夫先輩と総会にて
 
高校の同窓会にて
 
         
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