氏 名
 鳥沢 忠夫
 所 属
東燃化学OB会
 掲 載 日
平成29年07月01日
表 題

 ふるさと川崎の思い出風景

本   文 

1.72年前(1945年)焼野原の川崎駅前 (写真-1)

 川崎は1000トンの爆弾で焼け野原に。 私が3才(1948年)の時家族と焼け野原に戻って来ました。  終戦直後の川崎の人口は約20万人で、川崎の出来事は祖父に聞きました。
 戦後の全国的に不安定な状況の中で、治安を回復するために警察予備隊(後の自衛隊)が組織され、川崎にも配置されました。
 川崎駅周辺の土地は、混乱期にあって本来の所有者が特定できず、そのまま現有の状態が固定されてしまったこともあった、とのことです。
 あれから戦後70年、このあたりも大いに発展し、今では数多くの娯楽・遊技の店が駅近辺に立ち並んでいますが、取り分けパチンコ・パチスロは70以上の店舗を数えます。ただし、出玉規制の強化が、今後どのように影響しますか...。

2.浮島町 東燃化学川崎工場 (写真-2)

 この写真を見ると思い出します。私はこのプラント(3SC)で20年間会社を守り(保守) ました懐かしいです。 現場のメンテナンスの仕事は勉強になりました。
 退職後に自営業になりましたが、腕だめしです。 折り畳電動自転車を持って北海道から四国までの仕事旅(一流企業20社)をしました。 四国では別子銅山跡の温泉まで自転車で山登りをして温泉に通いましたが、いいお風呂でした。
 横浜でスペラ水素の運転員になって運転成功、中原伸之元社長が視察に来られました。素晴らしい発明で、1000人以上の見学者が世界中から土産を持ってやって来ました。 2020年東京オリンピックが楽しみです新しいエネルギー、水素の時代の始まりです。

 *スペラ水素:C社が水素エネルギーを大規模に 貯蔵輸送できる技術を開発、“SPERA水素”システムと命名して実用化の準備を進めている。“SPERA” とはラテン語で“希望”を意味する言葉です。

3.50年前の川崎 (写真-3)

 50年前の私18歳で、川崎市の人口は約63万人です。 昔を思い出しました。  こんにちは赤ちゃんの歌流行った年です。
 給料は20000円で現金支給でした。 映画街の焼そば30円、駅ビルのカレー50円よく食べました。
 2017年川崎市の人口は150万人になりました。 50年後の私、TCCには感謝しています。
 ありがとうございました。

以上 

       
 
写真-1
 
写真-2
 
写真-3
 
             
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