今回喜寿のお祝いをして頂き、まことに有難うございます。喜寿などは遥か先のことと思っていましたが、とうとう迎える事となり若干戸惑っているとこです。今回は東燃時代以外の思い出を書かせていただきます。
東燃時代の最後5年間は石油基盤技術研究所で仕事をすることとなりました。メンバーはほぼ全ての石油会社より集まりました。多くの会社より集まっていたわけですが、まさか近い内に4社になってしまうとは思いもしませんでした。最近当時のメンバーが集まると、何時のまにか同じ会社の同僚(但しOBですが)としての話をすることになり、何か不思議な気がします。
たまたま基盤研の立上げの時期でしたので、メンバーの団結力は強く、それは20年経った今日でも続いています。最初から年1回の旅行をしていましたが現在も続いており、国内では北は北海道から南は九州まで、さらには台湾、韓国にまで足を運んでいます。
退職後ひょんなことから、宇宙科学研究所で仕事(但し1年契約の臨時職員)をすることとなりました。職務は放射線取扱主任者でした。公式には国家資格を持たれる教授が当たりますが、放射線作業の日常管理は資格を持つ者に委託するということで、私が採用されることになりました。採用後3年で定年(60歳)となりますので、3年間の仕事と思っていましたが、何故か連続して契約されなんと75歳まで18年間も仕事をすることになりました。
放射線関連の仕事がある程度順調になると、若干余裕が出来てきて、人工衛星の開発研究の手伝いを頼まれることになりました。
この間4台の人工衛星の作製に関わりました。
2台目が「すざく」と命名され、10年間順調にX線天文学の測定がおこなわれました。組立中の衛星と一緒の写真と、打上げ時の写真を(写真1・2)に示します。
3台目が有名な「はやぶさ」で、この時はこれに対し表彰(但し表現は感謝状)を受けました。この写しを(写真3)に示します。
宇宙研にいる間、色々な研究施設に見学に行くのに同行させていただきました。特にスーパーカミオカンデが破損した時、その修復作業現場に立ち入らせてもらったことが記憶に残っています。当然このような場所に立ち入ることは極めて限定されます。さすがに宇宙研はすごい研究所だとつくづく実感した次第です。この時の破損した水槽最下面より、修理中の上を見た写真を(写真4)に示します。
最後になりましたが、このように意義ある人生を歩めたことは、皆様方のお陰と感謝しています。有難うございました。
以上