氏 名
 中川 千代子
 所 属
東燃本社OB会
 掲 載 日
平成30年06月01日
表 題

 米寿を迎えて

本   文 

 OB会で米寿のお祝いをしていただき、この場に出席できましたことはこの上なく嬉しく感謝の気持ちで一杯です。

 私の子供のころは寿命は50年でしたが医学の進歩と共に年々延び、今年私もやっと平均寿命に達しました。これから先も長生きして、命ある限り余生を楽しんでまいります。

 昭和5年生まれの私は過酷な戦争を体験しました。戦争末期昭和20年5月25日の山の手大空襲では、我が家も焼けてしまいました。逃げ遅れ、父とはぐれた姉と私は一面の火の中を逃げ惑いつつ、道路の真ん中に水が溢れている所にきました。数人が水の中に浸かり、一心にお経を唱えている中に二人で飛び込み、全てが燃え尽きるまで皆と夢中で唱和しました。その穴の水は当日落ちた焼夷爆弾の穴で、運よく水道管が破裂して尽きる事無く水が溢れていたのでした。はぐれた父も、近くの大きなお屋敷の池の水を浴びて助かりました。母と妹は当日疎開先に帰り、家族全員無事であったことは奇跡としか思えません。

 その年の8月15日終戦、それからは食料難の時代です。東京生まれ、東京育ちの田舎のない我が家は、焼け野原を開墾して畑を作り茄子、胡瓜、南瓜等、色々な野菜を作り農業の楽しさも知りました。

 昭和23年女学校を卒業後、英文タイプの資格をとり、農林省に就職し2年10か月勤めましたが、課長から東亜燃料を紹介され、簡単な試験のあと直ぐに決まり26年9月1日入社となりました。

 会社は戦後の高度成長時代、忙しいけれど活気に満ちあふれ、今となっては楽しい思い出ばかりです。退職後は好きな旅行と社交ダンスを習い始めましたが、ニューヨークのテロ後、海外旅行に気がむかなくなり、今はダンスとヨガで毎日を過ごしております。若い時に苦労を経験したせいか、今は何も不満ありません。それでも世界中ではまだまだ飢えに苦しんでいる人が大勢おります。また戦争で命の危険と日々戦っている人もおります。そんなニュースを聴くたび、世界中の人が平和に普通の生活ができます様願っております。


 写真-1 パソドプレを先生と踊る
 写真-2 懇親会にて(左から川上雅人さん、内埜滋民さん、塚田耕太郎さん、本人)

以上 

     
 
写真-1
 
写真-2
 
         
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