1964年(昭和39年)の東京オリンピックの前の経済成長期の最中の求人拡大で、進学の奨学金を受けた。ところが2年後の入社時は急拡大による反動の冷え込みにより、男子入社者は全社で2名であった。人事担当重役から「採用をゼロにしたかったが、やむを得ず採用した」と言われ今でも妙に引っかかっている。この辺りが出向履歴の始まりかもしれない。2回目の東京オリンピック終了時には現在の人手不足がどうなっているのか、心配である。
精製能力拡張に向けて沸く、和歌山工場から中研に転勤後、程なくして重油脱硫の為の国家プロジェクトが発足し、川口駅東口前の資源技術研究所(埼玉県川口市)で研究が開始され、前任者の交代要員で出向した。その時の参加石油会社は、昭和石油、興亜石油、日本鉱業、ゼネラル石油、大協石油、丸善石油、三菱石油、亜細亜石油、東亜石油、東亜燃料であった(日石と出光は、自社で研究)。今でも数年間隔で開催される同窓会は離合集散が話題になるが、当社の名前が消えて、いつの間にか同じ会社に属して種々の情報交換をするとは夢にも思わなかった。東燃は何と上記10社の内の5社の一員となった。同窓会もどの様に終了するかが、主テーマとなりつつある。
5年後には自動車製造会社に半年間出向し、同社の寮から通勤した。出向先の車でないと駐車等に不便を来すので、急いで同社中古車に乗り換えた。大部屋の技術部内は真ん中の通路を挟んで、半分は親会社社員、残りは同数以上の子会社からの出向社員と厳格に区別され、グループ総動員体制下の資本関係の厳しさを目の当たりにした。資本関係のない東燃社員は机を何処に配置すべきか、部課長レベルで色々と論議があった事を後から聞いた。正解は親会社新人の隣りの末席であった。でも親会社待遇という事で、面目を保ってくれたと思う。子会社、孫会社へ発売直前のEFI(電子制御燃料噴射装置)付きの車で試乗を兼ねて頻繁に出かけ、当時同社はキャブレター性能向上に苦労していることを理解した。
会社勤め最後も官庁下請け機関に出向し、多くの人たちと巡り会え貴重な生涯の友を得た。中研時代に出願した特許案に拒絶査定をした担当審査官が上司となり、世の中の狭さに驚いた。結局10年の長きに渡りお世話になり、現在は年金をこの機関からも受けている。
この様に、波乱万丈な実り多き東燃人生を贈れたことを皆様に感謝したい。
写真説明(ドイツにて合唱の発表会に参加のため総会時不在、2016年の写真使用)
写真-1 懇親会にて(左端が本人)
写真-2 懇親会にて(左から、久保田さん、本人、杉山さん)
以上