昭和35年18歳の春、三つボタンに身をつつみ就職列車にゆられて、「ああ!上野駅」に降り立った。その時から、希望にあふれた日網石油精製(キグナス石油精製の前身)入社の第一歩が始まった。
当初、川崎には工場はまだなく、東燃清水工場で6ケ月間の実習後、操油課に配属となって、始まった工場建設に関与した。 その後、製油課、工務課、操油課に異動、数年して再び工務課に異動となった。 異動は自分ではどうしょうもなく、退職後の人生を含めて勝負をかけようと考え、国家試験の高圧ガス製造保安責任者(機械甲,乙)、危険物取扱者(甲,乙4・6類)、ボイラー技士(1級)、酸欠(第1,2種)、その他の免許を取得した。
28歳で人並みに同郷(新潟県柏崎市)の女性と結婚。 29歳で長男、31歳で次男に恵まれと同時に、横浜日吉の地に建売住宅を購入し入居した。40歳の頃は子供サッカーに合わせて、大人のサッカーチームを結成し、お遊びサッカー大会を主催した。
47歳で東燃総合研究所「新素材開発G」に出向となり、若い研究員と一緒に「セラミックスの糸を作る」仕事に携わり、49歳で中原論文に挑戦し、約100名応募中、二席2名入選の1人に選ばれた。
54歳でTTECに出向し、鹿児島県串木野市の石油地下備蓄基地ポンプ増設工事に7ケ月単身赴任。川崎に戻り、「アクアライン海ほたる」建設時において、川崎市要請による川工原油桟橋3Km沖移設工事のTTEC担当工事一員として2年間携わった。この桟橋は、羽田飛行場を発着する機上から下に見ると、今も懐かしくなる。
57歳で早期退職、最後までTTEC出向勤務であった。 その年、前立腺癌(ランク4)を手術し一命をとりとめた。また、同じ年、ビル管理サービス会社に再就職し、主にビル空調管理業務に携わって20年間継続、今も務めている。
71歳で「鉱物同志会(会員300名)」の副会長として、「何でも鑑定団」に出演し水晶を鑑定出展した。(鑑定結果は10万円→25万円アップ) なお、51歳の時に、それまでの趣味を「切手やコイン等のコレクション」から「鉱物」一本に絞り、76歳になって「関東と周辺の鉱物」写真集を、私の責任のもと仲間20名で発行し、約1,000冊を2ヶ月で完売した。 また、66歳の時に、故郷の柏崎市に借地付き「海の家」を購入したが、71歳で更地にして処分した。
喜寿の77歳、勤めていると健康にいいようだ。 この10年間、風邪をひかず、薬は飲まず、病院は歯のクリーニングと健康診断のみと、健やかに過ごしている。 もう5年は仕事を続けたいものです。
今から思うと、苦しいときもありましたが、辛抱強く耐え、東燃・TTECにも出向し最後まで勤務できたことは大変嬉しい限りです。 喜寿を迎え、私の拙い歩みに付き合っていただき感謝いたします。
写真説明
写真-1 KSSOB会懇親会にて(左から橋本龍郎さん、遠藤義昭さん、本人)
以上