氏 名
甘利 忠雄
所 属
東燃総研OB会
 掲 載 日
令和01年10月24日
表 題

 米寿を迎えて

本   文 

 第40回東燃総研OB会の席で、米寿を祝っていただき有難うございます。思えば、東燃マンとしてスタートした時のことが一番強く印象に残っております。昭和25年2月、「出社されたし」との電報を受け取り、吹雪の中を蒸気機関の夜行列車に乗り込んで上京、翌日に駿河の国にある東亜燃料工業(株)清水工場に到着しました。沖に停泊する原油船を見つめていると、「あれが東燃向けの第1号ですよ!!」と教えられ、夜景に映えるペガサスのネオンサインを見つけては、「これが世界に名高い石油のマークか」と思い、見るもの聞くもの全てが新鮮で活気に満ちていました。
 清工では2-ステージ蒸留装置のSDやスタートアップなど貴重な体験を生で得られたこと、また、on-streamになってから各種留分試料の試験・分析を担当できたことは、その後の自分にとっての大きな財産になりました。

 入社4年目の昭和28年、新しい分野を開拓し研究を確立するために東燃和歌山工場への転勤となり、和工の新試験室完成(31年9月)の頃には多くの同志の方々との出会いもあり、充実した業務を遂行できるようになりました。
昭和32年のオリオン計画によって再び清水工場に戻りました。この拡充合理化計画は工場のみならず研究所が第1部から第4部まで分科され、名実ともに総合的研究所へ転換しました。

 昭和36年9月、中央研究所がまだ武蔵野の面影を残す静かな場所に建設されました。そして、研究活動の最高機関として毎月研究開発委員会が開催され、活発な討議が行われました。それらの資料・討議のまとめ作業に加わり多忙な日々送りました。また、中央研究所が完成した翌年の昭和37年9月27日、当研究所へご来場された皇太子殿下(今の上皇)が私の担当していた分析室にお出でになり、間近に拝顔出来たのもこの上ない光栄でした。
 そして種々の研究開発が盛んになり、石油外分野への進出も多くなり、黒ものと言われたピッチからの炭素繊維開発が行われ、その一翼を担えました。

 東燃マンとして、スタートした我が人生の大半は、苦しいことがあっても、希望に満ちた有意義な日々であった。
 東燃マンを卒業してからの余生を人の為、自分の為にもなるであろう言葉の研究・話し方の研究を実践し、特訓・実習で10年目には、講師の資格を得た。何も話せなかった大学生が、先生の指導のもとで、話せるようになり、今では、広島大学の教授となり毎年国際会議へ出席し、分かり易い話し方で好評を得ている。これも口の体操・発声の訓練が大切で毎朝実行し続けているからである。

 最後に、心身共に健康である事が最高の幸せであるが、最近、思うように行動ができず、歩くと転ぶ危険性が高い。しかし、残された余生に感謝し明るく前向きな日を送っています。

以上 

   
 
軽井沢への家族旅行にて
 
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