氏 名
小長谷 裕工
 所 属
東燃清水OB会
 掲 載 日
令和02年09月24日
表 題

 楠木氏発祥の地は清水?!

本   文 

 私の住む草薙の近隣である清水区楠についてお話しします。
日本史上出色の名将 楠木正成(?~1336年)は、鎌倉末期から南北朝時代に活躍した武将ですが、楠木氏の発祥地は長らく河内国(現 大阪府)と考えられてきました。

 ところが、近年楠木氏駿河国発祥説が得能弘一氏により提唱(1986)され、以後これを支持する学者も少なくないようです。その駿河国発祥説が説く、正にその土地こそが清水区の『楠』(くすのき)なのです。

 一所懸命の言葉にある様に、当時の武士は、大切な一所の所有者が己である事を内外に宣言する為、その地名で名乗りこれを名字としました。が、河内に楠木あるいは楠の地名はありません。

 正成以前の文献上に楠木の名を探すと、吾妻鏡の建久元年(1190年)11月7日。 頼朝上洛時に随従の武士団の後陣四十二番に『楠木の四郎』の名があります。正成との関係は不明ですが、楠木氏が畿内の武士ではない事を匂わせます。正成湊川合戦自刃の約150年前です。

 清水区『楠』の東隣は清水区『長崎』で、『楠』も『長崎』も鎌倉時代に北条得宗家(北条氏嫡流家)領でした。実際に管理していたのはその被官 (家来)。長崎家(平姓)は得宗家の執事、内管領を務めた有力御家人で、霜月騒動で鎌倉幕府開闢の功臣である安達家を滅ぼしています(1285年)。安達家は河内の観心寺荘の地頭でしたが、争い破れ観心寺荘は得宗家に組み入られた様です。もし楠木氏が長崎氏同様に得宗家被官であったとすれば、この時に「楠」村から河内の観心寺荘に移ったのではないかというのです。ここに楠木正成の活躍地盤である観心寺荘との接点が見えて来ます(正成湊川合戦自刃の約50年前)。

 正成が後醍醐天皇の召命に応ずる以前、得宗家執権高時の命により、摂津と紀伊国で武勲を上げています、後に倒幕へ動くのですから、正成の代では既に得宗家被官ではなかったと思われます。しかし以上が事実であるなら後醍醐天皇の召命には、得宗家に対し、家の出自から浅からぬ、複雑な思いがあったのではないかと小生は勝手に想像します。

 鎌倉幕府滅亡に関わる重要人物である、得宗家被官の長崎円喜・高資父子、そして倒幕側の楠木正成。しかし今、残念なことに又当然に、この地でその歴史を垣間見る為の「よすが」は、地名だけでしかありません。

 因みに『楠木』『楠』と両様の書き方が行われています。文献では『楠木』が多く、太平記では『楠』となっているようです。


 写真の説明
  写真-1: 楠自治会館
  写真-2: 自治会館の隣に建つ白髭神社

以上 

     
 
写真-1
 
写真-2
 
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