箱根西麓の山中城跡に行ってきました。山中城は、戦国時代末期に北条氏によって作られましたが、豊臣秀吉の小田原攻めで落城しました。
その時の軍勢は、北条軍4千名に対し豊臣軍は4万名で、圧倒的兵力と鉄砲の前にわずか半日で落城したということです。
圧倒的な兵力差によって落城したとはいえ、箱根西麓の急峻な尾根上に掘を作りその土を使って山頂部にいくつかの曲輪を作った見事な山城です。観光用に作られた山道をめぐると、その全容を観察できます。建物は何一つ残っていませんが、発掘された堀や曲輪跡地を見てすばらしい山城であったことがわかります。特に本丸、二ノ丸、西ノ丸そして北ノ丸の周りに掘られた堀がとても深く、水堀、空堀、障子堀など、寄せ手の豊臣軍をかなり悩ませたり、多くの戦死者を出したであろうことがうかがえます。
各曲輪や堀の発掘調査では、多数の角礫岩や鉄砲玉、少数の大筒玉が出土しており、北条軍は攻め寄せる敵軍を上から石を投げたり、鉄砲や大砲で撃ったであろうし、豊臣軍は圧倒的多数の鉄砲で応戦したであろうことが想像できます。
西に張り出した西櫓(にしやぐら)からは、愛鷹山、富士山、箱根連山、伊豆の天城連山、そして田方平野、駿河湾などが360度のパノラマで展開されます。
この櫓に登って、寄せ来る7万からの軍勢やのぼりを見下ろしたり、太鼓の音や歓声を聞いた北条方の兵士らの心は如何ばかりだったのでしょうか。
写真の説明 |
写真1 |
鳥瞰図 山中城の一部 |
写真2 |
本丸跡 標高580m |
写真3 |
西ノ丸跡 |
写真4 |
西櫓跡 |
写真5 |
西ノ丸障子堀 西ノ丸の周りに作られている堀の底に障子の骨のよ
うな畝がある |
写真6 |
西ノ丸畝堀 西ノ丸の脇の堀にいくつもの畝がある |
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