横須賀城跡は静岡県の掛川市横須賀にあります。前回報告した、高天神城の西方6kmの場所です。徳川家康は、武田勝頼に奪取された高天神城を取り返すため、周りに城塞を築く計画で、部下の大須賀康高に横須賀城の築城を命じました。横須賀の地は、太平洋岸に横須賀港があった場所で、海からの攻撃に備え、物資の海上輸送にも便利で、高天神城への兵糧輸送を押さえる目的もありました。
家康は、天正6(1578)年3月に完成した横須賀城を本陣として、大須賀康高を城主に任じました。また高天神城を囲む位置に6砦を築いて武田勢の兵糧の搬入を遮断しました。その結果、天正9(1581)年、武田方は兵糧もつき、夜襲を図りますが、徳川方に敗北しました。
小笠山丘陵に平城として築かれた横須賀城は非常に珍しい玉石積みの石垣です。玉石垣は一部が現存しており、その他の部分も復元されています。玉石は天竜川から運ばれたもののようです。
城のすぐ手前は海で、三方が入江、沼、湿地に囲まれた天然の要害でした。また、この入り江には横須賀湊があり、物流の拠点として機能していました。
しかし宝永4年10月4日(1707年10月28日)に宝永地震が発生します。これは現在考えられている、駿河湾から瀬戸内海一帯の南海トラフ地震と同じような規模でした。その地震で横須賀港一帯が隆起し、海は城から3kmほど南に離れました。(その49日後に富士山が噴火し、宝永山ができました。)
横須賀城は、その後明治維新まで20代の藩主が務めています。
写真の説明 |
写真1 |
横須賀城の鳥瞰図 東側半分 |
写真2 |
本丸南下区域の玉石垣 |
写真3 |
本丸南西部の玉石垣 |
写真4 |
天守台跡 |
写真5 |
本丸東南部の玉石垣 |
写真6 |
天守台跡から南(海側)を望む 真ん中のマンションもかって海だった所 |
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