氏 名
阿久津 敏朗
 所 属
東燃清水OB会
 掲 載 日
令和03年02月24日
表 題

 諏訪原城跡

本   文 

 城跡を巡る旅では、まず人に会いません。
 蒲原城跡では0人、山中城跡から諏訪原城跡では1人から5人。
 ただ、諏訪原城跡では、その後、島田市が特別御城印100枚の発行という地元の新聞のニュースで100人以上の人が集まりました。私の2度目の訪問は、整理番号81番で何とか特別御城印を入手できました。

 諏訪原城跡は金谷(島田市)の牧之原台地にあります。城の裏側は急峻な崖で、さらに東側は大井川。当時の大井川は「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と唄われた急流でした。
従って、城は表の大手口だけを守るように造られています。城全体も、各曲輪周りも薬研堀や深い箱堀が掘られています。

 諏訪原城は、武田の家臣馬場美濃守信房が武田勝頼に命じられて1573年に築城しました。城内に諏訪神社を建てたので諏訪原城と呼ばれました。主には高天神城を攻略するための兵站基地としての役割を持っていました。その後勝頼が25,000の大軍で高天神城を奪取したのは翌1574年です。
 ところが1575年3月、長篠の戦いで日本中で恐れられた武田の騎馬軍団が、織田徳川連合軍の足軽による3列の鉄砲隊に大敗します。そして1575年8月に徳川氏が諏訪原城を奪取し牧野城と改名します。その後も高天神城への兵糧攻めを続け、1581年に高天神城は落城します。

 1582年の織田方による甲州征伐で武田が滅亡すると、徳川方が奪って牧野城と改名した諏訪原城は存在意義がなくなり1590年に廃城となりました。

写真の説明
写真-1 諏訪原城跡の全体図
写真-2 本曲輪跡 円形に近い
写真-3 本曲輪と二の曲輪の間の空堀。薬研堀に近い(北側)
写真-4 本曲輪と二の曲輪の間の空堀。箱堀(南側)
写真-5 各地の空堀から見つかった銃弾。鉛製
写真-6 特別御城印 武田菱、赤鳥(今川家)、三つ葉葵が印刷されている。普通の御城印は、文字と背景の白黒が逆。家紋は同じ赤色

 

以上 

       
 
写真-1
 
写真-2
 
写真-3
 
             
       
 
写真-4
 
写真-5
 
写真-6
 
写真をクリックすると拡大写真が見られます