戦国時代、毛利両川(もうりりょうせん)の一方で毛利家を補佐した、吉川家の発祥地が清水区吉川である事をご存知でしょうか。
平安時代、藤原南家の系統で平将門追討の恩賞として従五位下、木工助を得て工藤氏の祖となる藤原為憲が駿・遠・豆の権守を歴任したことから静岡県内にその子孫が広がった。とりわけ清水の入江という所に住んだ入江氏は更に船越、岡部、興津、天野、蒲原、渋川、吉香(吉川)など所領した地名を名字とした支族に分かれた。入江一族と呼ばれる。
鎌倉時代、正治二年(1200年)一月二十日亥の刻(PM8:00~10:00)梶原景時一族とその郎党が鎌倉を追われ上洛の途中、清見が関(今の清見寺)にさしかかった。おそらく当時の駿河守護、北条時政の命を受けての事であろう、入江一族ほか在地土豪たちが待ち伏せていた。いきなり合戦となり、梶原勢は戦いながら徐々に北路西へ、現在の北街道をとって移動した。当時南路が本道であったが南路は吉川を通る。駿河国第一の豪勇吉川小次郎友兼の館があり、それを避けたといわれる。しかし、騒ぎを聞きつけ友兼も業物の太刀をとって合戦に加わってきた。友兼には梶原一族中最も豪である三男の景茂(かげもち)が当たったが、友兼が景茂を狐ヶ崎で討取る。梶原一族は次々と討死、自害していった。しかし友兼も深手を負い後日死亡。この友兼の功により子の吉川経兼(朝経と改名)が播磨国福井荘の地頭職を補任され、吉川氏の勢力地盤が西国に移る契機となった。
で、狐ヶ崎といえば清水の人には馴染みの地名だが、今の狐ヶ崎ではないらしい(清水区大内とも、駿河区曲金とも)。友兼の所持した太刀(備前青江為次作刀)は狐ヶ崎丸と名付けられ岩国の吉川家へ相伝、所蔵され国宝の指定を受けている(昭和八年、昭和二十六年新国宝の裁定)。現在岩国市吉川史料館に収められている。
約800年前の歴史事件に実用された太刀、その関係者の梶原景茂と吉川友兼、国宝として現存。凄いと思いませんか。
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