水窪(みさくぼ)は浜松市に編入されていますが、位置は浜松市の北端、長野県と県境を接する町です。観光案内の文書には縄文時代から人が暮らしていたとのこと。水窪川の両岸に人家が密集していますが、街中をちょっと走ったところではコンビニは無いようでした。
そんな山の中の集落からさらに山の中の山城を訪れました。高根城です。町の観光案内所・水窪路の里で道の詳細を聞き、農道を登ると10分位で行き止まりの駐車場に着く。そこに石碑があり高根城の由来が記されていました。
高根城由来 「室町時代後半地元国人領主奥山氏によって築かれた城である。永禄年間に今川・武田・徳川が遠江支配をめぐって争う中、落城した。その後武田信玄が大改修を実施し遠江進出の最前線基地とした」。(注)永禄年間1558年~1570年。
これまで訪れた山城には建物はありませんでしたが、初めて建物が残っていました。
それは物見の塔といったもので、城というほどではありませんが、周りは急峻で、土塁や堀切を設置し、物見のための井桜櫓(せいろうやぐら)の周りには、柵や塀が施され塀には狭間(弓矢を撃つための穴)も設けられていました。
<写真の説明>
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写真① |
三の曲輪:南北に三号堀、四号堀がある。手前の柵は観光客の安全柵、右手の階段も観光通路。 |
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写真② |
大手門:道と階段は観光通路 |
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写真③ |
堀切:二の曲輪と三の曲輪の間にある。断面は逆台形の箱型。深さ8m、幅11m。 |
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写真④ |
井桜櫓:2間×2間の正方形、高さ約8m。最上階は窓が開くようになっている。 |
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写真⑤ |
塀と狭間 |
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写真⑥ |
本曲輪の裏から見た水窪の街並み:北遠江と南信濃を結ぶ信州街道が見える。これを押さえることを目的に城が作られた。
右からの杉林のふもとに単線の飯田線が見える。 |
以上