『御城印』を求めて、今回は神奈川県小田原市の『石垣山城』と『小田原城』を訪ねました。
豊臣秀吉が天下統一への最後の障壁となった『小田原城』。北条軍5万5千と豊臣軍約20万が対峙したことで知られています。
秀吉軍は天正18年(1590年)3月1日に京都を出発し、4月3日に小田原へ到着したといいますから、武装して徒歩での1ヶ月の行軍。しかも途中、箱根山麓の『山中城』で戦があり、当時の人たちの体力には想像を絶するものがあります。
小田原城と城下町の周囲9キロを土塁や堀で包み込む『惣構え』(そうがまえ)。これを見た秀吉は、正面からぶつかるのは得策では無いと判断して、小田原城を見下ろせる石垣山に『石垣山城』を築城したとされています。
石垣山城は4月から6月までの約80日の突貫工事で築城しています。総石垣の城は関東でははじめてだったようですが、建物は和紙などを使ったプレハブだったようです。『一夜城伝説』がありますが、よく分かりません。
いっきに周りの木々を伐採して、突如目の前に現れた石垣城を見た北条軍は士気が低下して、7月5日に降伏、開城。人員を大量動員できる秀吉の権威と財力が北条氏を降伏させる決定打になったということです。
写真説明
写真-1:石垣山城 南曲輪の石垣
写真-2:石垣山城 二の丸、奥は本丸の石垣
写真-3:石垣山城 二の丸跡
写真-4:石垣山城からの小田原城(○印付近)と城下、相模湾
写真-5:小田原城の天守閣
写真-6:御城印:石垣山城・小田原城
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