「喜寿を迎えて」と題して当初、何を書いたらよいか迷いましたが、不安の中でペンを走らせて見ました。
私は昭和20年4月1日、東京の板橋区で生まれました。米軍による焼夷弾投下の中、母は生まれたばかりの私を背負って逃げ回ったと聞いています。通常であれば生きているのが不思議と言われるくらいのすさまじい空襲であったと聞いています。
その後間もなく父母の田舎である福島県会津若松市に両親とともに移り住み、地元の工業学校を卒業するまでの18年間会津に住んでおりました。自他ともに頑固と思われるのも、負けるとわかっていた戊辰戦争で最後まで官軍と戦った会津の地がそうさせているのかも知れません。私はその頑固を今でも誇りに思っています。私のIdentity(自己同一性)です。
昭和38年、私は富士電機(株)に入社し2年、その後系列会社であった富士通で3年間、主に電気部品の表面処理やそこで排出される青酸(シアン)化合物の無毒化処理を担当してきました。さらに化学の知識を活かしたいと言う思いから、昭和43年10月、東亜燃料(株)の中研(後の総研)に途中入社をさせていただき、主に石油製品の元素分析を担当してきました。その中でもファラデーの法則を原理とする窒素の分析装置MCTS(マイクロ クーロメトリック タイトレーティング システム)を日本で一番早くアメリカから導入するための担当者として、導入からマニュアル作成までそして信州大学での研究発表等、私が総研時代最も輝いていた時代であったと自負しています。ちなみに本分析装置は旧来の窒素分析(ケルダール法)では5~6時間掛るのに対し短時間(1~2分程度)で結果を出すことができる画期的な窒素分析計で、潤滑油の研究等に迅速にデータを提供することができたと思っています。
そのような中、早期退職優遇制度の波は当会社にも押し寄せ、これにより平成11年1月1日を以て早期退職をしました。勤続期間は30年でした。今後への不安はありませんでした。退職後、2年間東京都の水道局の下部機関で水質の分析を行いましたが早期退職優遇制度による蓄えもあったせいか新たに職を求めることをせず、地域の自治会長、サークル(卓球)活動の会長を積極的に引き受けるなど、会社生活ではできなかった、自分の好きな生き方を歩んできました。最近では週に3回卓球で汗をかき、健康寿命100年を目指しています。また歴史の解釈、医学書に興味を持ち、特に今後自分も罹患しうる前立腺がんのメカニズムや発症原因等を勉強しています。具体的には前立腺がん罹患者をリストアップし、その体質、生活環境、男性ホルモンの大小、遺伝性、喫煙の有無等から前立腺がんが予測できればよいと考えています。ある程度の傾向はありそうです。
最後になりますが、現在ゆとりのある家庭生活が出来ることは、偏に福利厚生面で潤沢であった東亜燃料(株)に入社し、そこで30年間、皆様と過ごせたことが所以であり、東燃ゼネラル石油株式会社会に感謝をしております。全東燃OB会の皆様のご健勝を祈念してペンを置かせて頂きます。
写真1 第34回総研OB会総会 役員一同(2013.10.26)前列右端か゛本人
写真2 東亜燃料中央研究所始業式1972.01.04
以上