コロナがいつ終わるともなく続き、総研OB会も中止で寂しい思いをしていたところ、米寿のお祝いの品を送って頂き懐かしく、真に有りがたく存じました。
先日総研跡地を訪れた時、ビバホームを中心としたマーケットがあの4万坪の広い土地に立ち並び、研究所の思い出の面影が跡形もなくなっているのにびっくりしました。60年以上も前の記憶をたどってみると、懐かしい想い出がおぼろげながら蘇ってきました。創成期の事を記憶している方々も少なくなりましたので、思い出を記させて頂きます。
私は昭和35年(1960年)の入社ですが、その頃は日本の高度成長期の始まりで、各社とも中央研究所創設のブームとなった頃です。最初に清水の研究所に配属となり、1年後に憧れの中央研究所設立と同時に埼玉の地に引っ越しました 。
埼玉のその一帯は武蔵野の森が拡がった処でしたが、東燃とダイセル、日清製粉の3社の研究所が隣り合わせに建てられた地域でした。森を切り拓き土地を掘り起こしたばかりなので、関東ローム層の赤土がむき出しになって風が吹くと砂ぼこりが舞い、隣のダイセルの4階建ての建物が全く見えなくなることもありました。最寄りの東上線上福岡駅までは未舗装で、道路の真ん中には草が帯状に生えているような処でした。我々引越し部隊はそれこそ清水での荷づくりから埼玉での荷物受取、荷解などプロの人に混じって汗を流しました。その頃、清水からの所員は総勢40数名でしたが、夜は川越の旅館に泊まり昼食は近所の食堂で揃ってとるという文字通りの合宿生活をしたのは忘れられない思い出です。
引越も落ち着いてからは研究が再スタートです。その時点では研究棟1棟(後のA研)、エンジン室、倉庫のみが建物で、土がむき出しの空地と林の残りが研究エリアで、社宅エリアとしては4階建てのアパート3棟と独身寮とグランドが隣接して建てられましたが始めは少人数なので、がら空き状態でした。社宅エリアには背丈位の細い桜木が並木状に植えられましたが、こんなの大丈夫かという思いでした。
研究室はトップに古賀所長をいただき、1研(分析、事務)、2研(潤滑油)、3研(燃料)、4研(石油化学他)という組織でした。その後1〜2年の間に工場から続々と転勤があり本格的な研究所らしく形を整えていきました。
その後は研究の巾が拡がるにつれ、ダイセル研の建物・土地を買い取りB棟、C棟、実験棟が建てられ、人数も約10倍にふくれ上がり総合研究所と衣替えしました。社宅エリアの頼りないような桜並木が巨木の並木に成長したのをみるように研究も新しいものを開拓すべく内容も変化していきました。
しかしエクソンとの関係や社会情勢の変化に伴い会社自体が大きく変わり、研究所跡も今は昔の状態になりました。
長くお世話になった会社、研究所の方々には米寿になった今、本当に素晴らしい懐かしい時を過ごせたと感謝しております。私も今は歳なりに衰えてきましたが、何とか元気に過ごしております。
以上