私が東亜燃料工業(株)に入社した昭和46年、当時は公害が社会問題として大きな話題となっていた。大学のキャンパスでは宇井純さんの公開自主講座「公害言論」が開催され、新潟水俣病が取り上げられていた。石油精製業は公害発生源の一企業として正直人気の無い企業であった。入社前に見学に行った川崎工場の建設現場の活気に感動し、私は化学工学を学んだ者としてささやかながらこの公害問題に貢献できると思い入社を決めた。
長い会社生活で多様な体験をさせて頂き、また多くの思い出を頂いた。
① 川崎工場のボトム分解プロセスの選定スタディに参画しHオイルを選択した。しかしエクソンの米国工場の爆発事故について裁判係争中であったため認められず直接脱硫プロセスが選択された。しかし時を経て再びHオイルが選定され、不況化の下、建設費が大幅に下がったため建設された。縁あってそのスタートアップに関与することができたことは感慨深いものがある。
② 入社3年目で初めての海外出張、渡米直後に第一次オイルショックに見舞われた。日本ではトイレットペーパー騒ぎなどが起こるなか、米国の人々は全く慌てず平静そのものであった。さすが資源大国、国力の違いを痛感した。
③ 和歌山工場勤務の折、「ネプチューンレオ」の油流出事故に遭遇した。ミナス原油であったため海に流出した油は塊となり海上のあちらこちらに浮いており、その回収には多大な労力を要した。強風が吹き寒い冬の海でこの作業に従事した従業員、協力会社の方々には大変なご苦労を掛けた。私自身は現場指揮と海上保安署との折衝に当たり、約10日間、平均睡眠時間4~5時間だったが気が張っていたためか、何とか乗り切ることができた。
35年間、良き先輩、良き同僚、良き後輩に恵まれ充実した会社生活をさせて頂きました。心から感謝申し上げます。
写真は初の米国出張、ニュージャージー州のホテル前にて@1973年10月です。
以上